垂仁天皇の時代、吉備の国に朝廷の百済から鬼神「温羅」がやって来て新山に城を構えました。
これが古代朝鮮式山城(岡山県総社市)である「鬼ノ城」です。
温羅は腕力に優れ、性格は凶暴であり、身長は4メートル以上ありました。
温羅はさらに、鬼ノ城から峰続きの岩屋山に住居をつくり、都への貢ぎ物などをのせた船や人々を襲いました。
こうして奪ってきた人や動物を煮るのに使ったともいわれる、口径が2メートル近くもある鉄の釜も新山には今でも残っています。
人々は温羅を恐れ、その乱暴ぶりを朝廷に訴えました。
天皇は次々に武将をつかわしましたが、誰も温羅にはかなわず、ついに武芸に優れていて勇敢な吉備津彦命を派遣することにしました。
命は海を渡り、吉備の中山の南にある明神岬に着きました。
漁夫達が命の一行をお迎えして、黍(きび)で作った団子を差し上げたところ、命は大変お喜びになりました。
これが今の吉備団子の始まりと言われています。
さて命は、鬼ノ城のよく見える吉備の中山に陣地を作り、西側を守るために小高い丘の上に石の楯を築きました。
楯築遺跡はその遺跡といわれています。
こうして、戦いの準備も整い、いよいよ温羅との戦いが始まりました。
命が弓で矢を射るとき、矢を置いた岩というのが、吉備津神社の正面石段脇にある「矢置岩」です。
一方、温羅は鬼ノ城で命の矢に対して岩を投げて応戦しました。
命の矢と温羅の投げた岩は、そのつどいつも空中でぶつかり海に落ちました。
その落ちた矢を祀ってあるのが矢喰宮で、境内にある大岩は温羅が投げた岩だといわれています。
また、岩の一つには温羅の手形がついているとも言われています。
さて、命がいくら矢を射っても一矢も温羅に命中しないので、命は同時に二つの矢を発射しました。
これには温羅も不意をつかれ、一矢は岩と一緒に海中に落ちましたが、もう一方の矢はついに温羅の左目にささり、
血潮が川のようにほとばしり出ました。
このとき流れ出した血潮が血吸川になったと言われています。
血吸川の川下の浜は、流れ出した血潮であたり一帯が真っ赤に染まったので、その浜は赤浜と呼ばれるようになりました。
命の矢を受けた温羅は、たまらず雉(きじ)に化けて姿をくらまそうとしたが、命の方は鷹となって追いかけました。
そこで温羅は、今度は鯉となって血吸川に姿をくらましました。
すると命は鵜となって、鯉を捕まえました。
その場所に建てられたのが鯉喰神社です。
命は温羅の首をはねて、さらしました。
ところが、不思議なことにこの首は大声で何年も唸り続けました。
温羅の胴体は、温羅の住居の近くの山中に埋められました。
その墓が皇の墓ではないかとも言われています。
さて、唸りやまない温羅の首に困った命は家来に命じて犬に食べさせてしまいました。
しかし髑髏になっても温羅の首は、なおも唸り続けました。
今度はその首を吉備津神社のお釜殿の釜の下を掘って埋めましたがやはり唸りやまず、13年間も唸り続けたということです。
ある夜、命の枕元に霊が現れて、「阿曽の娘に、お釜殿の神様に差し上げる飯を炊かせなさい」とお告げがあったということです。
現在でもこのお釜殿では、岡山県総社市阿曽地区の女性が奉仕をして神事をおこなっています。
その後、吉備津彦命は281歳で亡くなるまで、吉備の統治にあたったということです。
吉備津神社には、本殿に吉備津彦命と温羅が祀られ南北の二つの随神門には、命の家来がそれぞれ二神ずつ祀られています。そして吉備の国は平和な国となりました。
この「吉備津彦命の温羅退治」という話は、室町時代にまとめられた伝説ですが、桃太郎の昔話とよく似ており、温羅伝説が桃太郎伝説の原型だと言われています。
「備中温羅太鼓」はこの地に生まれ、この伝説をモチーフにした「温羅」という曲をメインに”ゆらぎ”を求め、全国、世界に発信しています。
そして、この話を思い浮かべながら、「備中温羅太鼓」の音とゆかりの史跡を巡ってみてはいかがでしょうか。